“ 人間は矛盾を抱えて生きている。建築はその象徴なのかもしれない ”
激動の時代に生まれた海の博物館
建築家の内藤 廣は、建築、土木、都市計画を通して未来の可能性を提示する稀有な存在だ。近年は特にその手腕から、さまざまな問題が絡み合う場に、自らの建築、もしくは包括的な視点で新たな可能性を生み出そうと活動を続ける。その内藤は、海、そして継承をテーマにした二つの施設を設計している。一つは、三重県鳥羽市で海洋文化を伝える「海の博物館」だ。そしてもう一つは、岩手県陸前高田市にある東日本大震災津波による犠牲者への追悼などを目的とした復興祈念公園「高田松原津波復興祈念公園 国営 追悼・祈念施設」。この二つの施設を通じ、内藤が見つめる海を紐解いていく。

日本における海洋文化において一級の資料を揃える「海の博物館」。意外にも、現在の建物はセゾングループの創業者である堤 清二が構想した「志摩芸術村」構想に端を発するものだという。国内外の芸術家が互いに交流を図るとともに滞在制作を行う複合的な施設を整備しようという内容だった。若き内藤はそのメンバーに名を連ねたが、計画そのものは経済状況の悪化から頓挫。しかし計画内で、鳥羽市内にあった「海の博物館」が芸術村の敷地に移転することが決まった。
「前館長の石原義剛さんとはじめて会ったのは1985年ごろだったかと思います。僕が芸術村全体の構想を立てていたのですが、その一要素として地元の施設である「海の博物館」を移転させようとなった。石原さんと話をするうちに設計をしてくれないかと」
その付き合いは予想を超えて長くなり、「海の博物館」の完成には7年半を要した。その間、日本はプラザ合意、急激な円高、それに伴うバブル経済の発生と崩壊という激動の時代を迎えた。内藤は「世の中の流れと真反対のところにいた」と振り返る。東京では建築家たちが高単価の物件について語らうなか、週に何度も鳥羽に通っては石原のさまざまな考えに半ば翻弄されながら、いかにローコストでいい建築を設計するかを考え続けた。内藤の意識を変えたのは収蔵品とその記録だ。学芸員が文化庁に提出する申請書類に克明なスケッチを添えていた。その美しさに、それまで倉庫に押し込められガラクタの山のように見えていた収蔵品が宝の山であることに気づいた。コレクションの意味を理解し、これを残さねばならないとの思いが強くなる。そのモチベーションが、当時の風潮と逆行するような設計作業に活力を与えた。
未来へ引き渡す建築
「今なら理解できるんです。漁業がどんどん廃業していく。収蔵に値する貴重な品が次々と押し寄せてくる。沿岸漁業が一気に衰退した時期で、とにかく収集のスピードが尋常ではなかった。彼らからするともっと集めたかったでしょうが、精一杯やっていた。乱暴に言えば民俗学とは暮らしに関するすべてをもらってくるということ。漁民の日常にまつわるものまで回収するので、すぐに収蔵庫はパンパンになってしまう。しかも日用品はすぐに失われていきます。収蔵庫の建設には国の補助金を得ているし、重要文化財も所有している。だからものすごいマニュアルがあり、それに基づいて保管している。でも、現在では竣工時に比べて5〜6倍の収蔵量があるんじゃないかと思います」
館の立ち上げをつぶさに見ていたからこそ、内藤もまた海の生業が変化し、漁業者が減少していく姿を目の当たりにした。樹脂の成型技術が広がり、漁業は変わる。船は木製から繊維強化プラスチック製に変わり、発動機がついた。漁網も麻や木綿からナイロンに変わった。
「石原さんは、沿岸漁業が豊かであれば日本は大丈夫だという信念をもっていました。しかしライフスタイルの変化で、それまで続いていた循環が失われた。(近年の漁獲量の大幅な減少など)いずれ困る時が来るという意味で、先見の明があったのでしょう。ここには、変化以前のものがたくさんある。少し前の海の暮らしを知りたければ、ここにくるしかなくなりました」

館内の収蔵庫にはさまざまな船が置かれ、その姿は圧巻だ。
「収蔵庫はプレキャストコンクリートを使いましたが、一切の無駄を削ぎ落とした。僕自身の志を下げないためという側面もあるんだけれど、最先端の技術でコストをブレイクスルーしようと考えたんです。今見ても、最初に作った収蔵庫の構造体を超える仕事はなかなか難しい。工場で事前に作った非常に精度高いパーツを現地で組み立てました。この収蔵庫は海抜12.5mの硬い岩盤の上にあります。これも石原さんからの強い要望でした。江戸時代ぐらいまでの寺の過去帳を調べ、津波が遡上しない高さということで設定した数値です。収蔵庫は未来に引き渡していかなきゃいけないものだから」
一方、展示棟の方は、大断面集成材による大空間。近年、木造の大空間が注目を集めるが、内藤はそれに大きく先んじて「海の博物館」でそれを実現している。それを振り返りながら、「一言で言って一生懸命作りました。石原さんから、展示棟は木造にしたいと希望されたので、当時の木造技術と構造解析の最先端技術を注ぎ込んだ。完成しても反時代的だし、事務所が潰れる寸前までやりましたね」と笑う。

高田松原津波復興祈念公園 国営 追悼・祈念施設
内藤はのちに「陸前高田市立博物館」(2022年)を設計しているが、ここでも津波から収蔵品を守る策を取った。しかしそれを大きく先んじた事例だ。しかし、その考えは自身というよりも博物館の卓見によるものだという。東日本大震災で海の記憶をいかに継承していくかが、あらためて大きな課題となった。人の営みの中で継承はどうしても途絶えてしまう側面は否めない。
「たとえば漁師は、海という危険な場で生死をかけて暮らしている。それは個人の生き方の問題であり、やめろとは言えない。僕は岩手県津波防災技術専門委員会の委員を務めました。防潮堤の高さを決める委員会で、東日本大震災にまつわる委員会で最も精神的に厳しいものだった。東北の沿岸地域に対して高い防潮堤を作り、海と隔絶された地域を作ったわけです。津波の専門家は、津波は与条件が多くて予測できるものではないという。けれど復興のためにはなにかを判断していかなくてはいけない」
ここで、なぜ決めなくてはならないかという疑問が浮かぶだろうと内藤はいう。
「被災地に通い続け、なぜこうもうまくいかないのかと思い悩みました。そこで一年をかけ、法律の本を読んだ。国土交通六法、六法全書、それからさまざまな法律関係、権利関係の本などです。役人の誰もが、現場で復興に向けて一生懸命やっている。けれど、彼らは根本的に二つのことしかできない。法律を遵守すること、そして予算を執行すること。彼らと話すには、こちらも法律を知らなければならないんです。たとえば土地区画整理法を読む。けれど、どうもわからないところがある。それは権利の問題なので民法を読む。民法を読んでもわからないところは憲法を読む。読んでは戻ってを繰り返すうちに、憲法は国民の生命財産を守る、個人の権利を尊重すると言っていることが見えてきました。防潮堤がなく被災したエリアがあるとします。区画整理をしないと新しい街ができない。それから高台移転もしなくてはいけない。そのためには安全といえる場所を作らねばならない。けれどそれが約束された安全かどうかは誰にもわからない。しかし決めなくては、法律が止まってしまう。矛盾です」
一部の地域は防潮堤を不要だといった。そこは漁村集落で結束が固く、いわゆる自治がある。だから作らなかった。「防潮堤への批判はよくわかりますが、作らざるを得なかった。それがあの時点での住民の意思だったのです。けれど人の心は動く。国は施策を打たなくてはならない。しかし施策が実施されたあとも人の心は動き続け、ときには防潮堤はいらなかったかもしれない、となる。ある種の矛盾を持ち続けるのです」と、内藤はいう。

矛盾を抱えながら、海と生きる
「高田松原津波復興祈念公園 国営 追悼・祈念施設」でも、地元の人々と長い話し合いを続けた。まず議論されたのは、震災遺構を残すかどうかだ。内藤自身は残すべきだと思うものの、それを口にはできなかった。議論の末、青年会議所のメンバーが「いくら口で伝えても、いくら資料で伝えても、百年先まで(震災の被害を)伝えるのは無理だ」と発言したという。すると婦人会の会長を務める年配の女性もそれに賛同した。こうして震災遺構を残すことが決まった。
「とはいえ、いまも地元はアンビバレンスな思いを抱えています。いまも海に行くのが怖い、海の近くが怖いという人は多い。震災遺構で悪夢がフラッシュバックすることもある。けれど、そこに暮らす人々が残すことを決めたのです。『海を望む場』に訪れるのは、どうしても外部から訪れる人です。だからこそ、嵩上げした街中にも追悼の場所(陸前高田市東日本大震災追悼施設)を設けました。しかし今年は驚くことがありました。毎年3月11日は、誰に頼まれたわけでもないけれどいくつかの被災地を訪れています。震災から15年。今年は陸前高田市に行きましたが、ずいぶん若い世代が『高田松原津波復興祈念公園 国営 追悼・祈念施設』を訪れていた。雰囲気からすると地元の若者だと思う。やはり代替わりはするのです。追悼式典もどんどん縮小し、もうやめようという地域もある。いろいろな思いが去来するので、それはそれとして理解ができる。けれど『海を望む場』にたくさんの若い人がやってきて、海に向かって追悼をするというのは、いい風景だったのです」
おそらく、人は忘れないと生きていけないと内藤は続ける。
「被災地で、なぜみなが明るく振る舞えるのだろうと不思議に思うことがある。けれど付き合いを重ねていくうち、彼らの多くが家族の誰かを失っていることを知る。あまりに辛いことがあると、人は忘れなければ今日を生きていけない。それは僕らに備わる本能なのでしょう。しかしだからといって同じことを繰り返していいわけではない。ここに矛盾があります。僕は長く三陸に通っているけれど、被災者から海が憎いという言葉を聞いたことはない。原発事故は人災だけれど、津波は違うんです」

海と山、その間にある建築
さらに海を考えるうえで山を考えないわけにはいかないという。「海の博物館」に収蔵される漁船も多くの木を使う。カシなどの堅木、油分の多い南洋の柔らかな木材など、部位に応じた木材を用いるが、そのためにかつて漁村の周辺で木を育てていたという。現在の漁村の風景とは違うものがかつて日本にはあったはずだと、内藤。そしてそれもだんだん忘れられていく。「海の博物館」では普遍的な素材を使った。屋根も瓦だ。
「我々がいま抱えている諸問題、つまり、海の問題、山の問題、エネルギーの問題などは1960年前後に端を発するものではないかと考えています。先ほどお話ししたもろもろの法律が成立したのもその前後。当時、日本が何をしようとしたのかを考えねばならない。三陸の復興に関しても当時決めた法律が大きなハードルになりました。つまり、1960年前後は日本が経済的発展にシフトすることを決めた時期です。自発的に決めたというよりも経済に引っ張られる形で事後的に法整備していったのか。ただ、建築にはまだ資本主義経済の外にある価値を感じることがあります。ある時は職人のこだわりであり、ものづくりの精神のことです。かつてのような強さはないけれど、まだ残っているのを感じる。かつてイヴァン・イリイチが『シャドーワーク』と表現した経済に絡め取られない価値観。そこに人の心を変える力があるのだという期待や希望を持ちたい。本来、建築は釘1本まで値段が決められている。そこで資本主義的ではない価値を生み出せるとしたら、そこに望みがあるのかもしれない。今多摩美術大学で学長をしていて、若い学生に期待ができるのではないかと感じるのは、その辺りに関する感度が高いということです。これを感じることができたのは僕にとって大きなご褒美でした」
若者は若者で、世の中で起きていることを冷静に見ていると内藤は評する。東日本大震災の直後に内藤が行ったワークショップに参加した当時の高校生が、いま活動に戻ってきてくれた。これは実にうれしいと、内藤。
「わずかでもこうした循環ができると、まだ教育を頑張れる。建前としての資本主義的なロジックを子どもたちはまったく違うように受け取っていくので、社会の歪みを修正する種をそこに作ることができるのではないかという楽しい期待が持てる。遅かれ早かれ人工知能が人間とは何かを問うてくる時代がやってきます。それはこれまで人間がおこなってきた営みを総ざらいして見直すのにはいい機会になるのかもしれません」


最後に内藤は、アメリカ人小説家のパール・バックが1947年に発表した短編『大津波』に挿絵を添えた『つなみ THE BIG WAVE』を差し出した。津波の被害にあった主人公がふたたび海に住むことを選ぶ。「つまり、生き方、個人の自由、そして意思こそが、僕たちが考えるべき問題なのです」。人間と海の関係、その間にある建築がどうあるべきかと考えているのだろうか。
「建築が本当に必要なのかと思うこともあります。けれど、ここまで話してきたように人間は矛盾を抱えて生きている。建築はその象徴なのかもしれない。だから矛盾だらけなのです。ただ、我々は海の豊かさと恐ろしさと怖さを感じながら生きていかなければならない。実は海だけではなく、山もそう。その間に建築がある。僕らはその自然からの恵みを再構成し、建築をつくっているわけです。現代文明はすべてがそのように自然を再構成しているわけです。そのことを忘れないようにしないといけない」
近代化のなかで、人は歪みとともに産業を築いてきた。その背景に自然があることを忘れてはならないと内藤はいう。そして建築はこれからいかに近代的な病いを軽減していくかが問われているのだと続ける。海を見つめ、山を見つめ、そして人と建築を見つめる。社会と向き合い続ける建築家は、遠い海の先を見つめて仕事を続けている。

内藤 廣(ないとう・ひろし)
1950年神奈川県横浜市生まれ。建築家。東京大学名誉教授、多摩美術大学学長。1976年早稲田大学大学院修士課程修了。フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所(スペイン・マドリッド)、菊竹清訓建築設計事務所を経て、1981年内藤廣建築設計事務所を設立。2001年から東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻教授、同大学副学長を歴任後、2011年に退官。代表作に、海の博物館(1992)、安曇野ちひろ美術館(1997)、牧野富太郎記念館(1999)、島根県芸術文化センター(2005)、とらや赤坂店(2018)、高田松原津波復興祈念公園 国営 追悼・祈念施設(2019)、東京メトロ銀座線渋谷駅(2020)、京都鳩居堂(2020)、紀尾井清堂(2021)、多摩美術大学上野毛キャンパス 本部棟・講堂(2026)など。