気仙沼の未来
「答え合わせってどこでできるかなって思ったとき、高校生の成長の姿だったりするのかな」
(気仙沼市立鹿折小学校・千田教諭)
東日本大震災以後、未来の持続可能性のために「海」を主題として教育に取り組んできた町がある。宮城県気仙沼市である。
2011年の発災から15年、2026年に成人を迎える新成人にとって、その震災の記憶は必ずしも定かでなく、おぼろげなものとなっている。
大きな厄災があるたび、「風化させてはいけない」という社会の声もあがる。しかし15年が経つ中でその記憶も薄れはじめているのは、何も子供たちに限ったことではない。
気仙沼市では2013年より「海洋教育」という名称のもと、海の怖さだけではなく、海の恵みを含めた「海と生きる」まちづくりを目指し、一環として教育にも力を入れてきた。
地球上の生命や環境、暮らしと深く結びつく「海」と、人とのつながりについて学ぶ教育である「海洋教育」。全国各地で海とともに生きていくための試みがなされる中で、気仙沼の海洋教育も試行錯誤を重ねながら地域に根差した教育としての取り組みを進めてきた。
海洋教育を経験した子供たちは、いま新成人として新たな一歩を踏み出すに際し、受けてきた教育をどう捉えているのだろうか。子供たち、それを行ってきた気仙沼市の学校教職員とともに、気仙沼の海洋教育の13年を前後編で振り返る。
<後編はこちら>

インタビューに登場する方(前後編共通)
(先生方)
淺野亮さん(気仙沼市・宮城教育大学連携センター 主任運営員(運営統括))
小野寺裕史さん(鹿折小学校 校長)
亀谷彩布美さん(面瀬小学校 教諭)
櫻井美佐子さん(階上中学校 校長)
佐藤祐美子さん(面瀬小学校 校長)
千田康太さん(鹿折小学校 教諭)
(高校生のみなさん)
小野寺椎菜さん(気仙沼高等学校 3年)
倉永那月さん(気仙沼向洋高等学校 3年)
栖原朱里さん(気仙沼向洋高等学校 3年)
中村祥平さん(気仙沼高等学校 3年)
畠山愛生優さん(気仙沼高等学校 3年)
松岡寧佳さん(気仙沼高等学校 3年)
村上一善さん(気仙沼向洋高等学校 3年)
※氏名はあいうえお順、所属は小学校はすべて気仙沼市立、高校はすべて宮城県立、所属・役職は2026年2月現在
子供たちにとっての海の学び
「海洋教育」として展開されてきた学びの活動。子供たちはどのように受け取り、今どのように意味づけているのか。
村上「小学校の養殖体験、覚えています。ワカメとホタテ。自分はホタテが好きでどうやって育ったのか気になっていたので、それを知れてよかったし楽しかった。海のことをもっと知りたいし、船にも興味があってそれで向洋高校を選びました」
村上さんが通っていた大島小学校では、海での養殖体験が授業として実施されていた。そのことが彼自身のその先を考えるひとつの材料となった。彼はこの春、気仙沼向洋高校を卒業し、船員として働く。

また同じく気仙沼高校を卒業する生徒たちも話す。
中村「よく小学生でやっていたなと思います。海洋学習が自分の中の誇りって言ったら言いすぎかもしれませんが、自分が力を一番出せたものだなと思う。その経験があったから今も『できるだろう』 みたいなのがたくさんある。「起源」ですね」
畠山「海洋教育の中で技能実習生のことに興味を持って、そこから高校まで続けて探究している。こんなに何かを長く続けられたのがはじめてだったのですごくよかったと思う」

他方、気仙沼向洋高校の倉永さんにとって海洋教育はやや異なる経験であったようだ。
倉永「一年に一度、学校全体の行事でみんなで海に行ってゴミ拾いをしてから砂の造形を作るという行事があって。そのために海岸清掃をしました」
海で遊ぶ経験は日常的にあったものの、学校での海洋教育に強い印象はないと語る。
そうした濃淡はありつつも、気仙沼にとって意味あるものだという認識は共有されていた。気仙沼高校の小野寺椎菜さんは話す。
小野寺(椎)「海洋教育の意味はよく理解できていなかったし、最初は自分たちのこの小さな力で何か気仙沼のためになるのかな?と思った。けれど気仙沼に住んでいる一員として、やるべきことかなという感覚はあった」
復興の歩みを支える教育
海洋教育という考え方が気仙沼にやってきたのは2013年。海洋教育の普及を目的とする東京大学海洋アライアンス海洋教育促進研究センター(2019年に教育学研究科附属海洋教育センターに改組)と気仙沼市教育委員会との出会いにある。2014年には「海洋教育促進拠点としての連携協定」を結び本格的な海洋教育の出発点となった。
防潮堤の建造や用地移転によって海は物理的に遠ざかり、大きな災害をもたらした海への恐怖によって、心理的にも距離が生まれた。それでも、気仙沼と海を切り離すことはできない。海と離れるのではなく、関わり合いながらどう生きていくのかを模索する、そのあゆみを支える手段として、海洋教育は位置付けられた。
鹿折小学校校長・小野寺(裕)「海で生計を立てる人の多い町で『人びとが海と一緒にやっている』ことにつながりのある教育を強く打ち出すのは市民の皆さんにとってもよいという思いはあった。リアス海岸の気仙沼は、山側の場所であっても海と近く、気仙沼全体がひとつの『海の町』という特色があるので、教員も市民も学校でそれに基づいた学びがあることにはポジティブだったと思う」

小野寺さんは、海洋教育は市民目線からも前向きな活動だったと話す。同校教諭の千田さんも、地元産業に教育から光をあてるきっかけになると考えていた。
千田「気仙沼にはすごくマッチしていて、色んな角度から学びを深められるなって印象でした。漁師さんの仕事を海洋教育で価値付けしてもらえる、そういう期待はありましたね」

また震災復興のスローガンであった「海と生きる」というフレーズも、海洋教育に取り組む背中を押すきっかけのひとつとなった。階上中学校校長の櫻井さんは、当時教育委員会の一員としてそのスタートに立ち会っていた。
櫻井「『海と生きる』は大きなキャッチフレーズになっていました。当時、震災後に海からだんだん離れている寂しさがあって、それでも海と一緒に生きていかなくちゃいけない地域だから、子供たちには『海ってすごいよね』と感じてほしかった。私としては、再び海に目を向けるきっかけとして海洋教育を取り入れていくんだ、よかった、やっぱり気仙沼だな、と思いました」

気仙沼と「海洋教育」という文言やそのビジョンとの親和性は、あらためて語るまでもなく感じ取れる。しかし、当たり前に海があることや「海と生きる」町であることと、それが教育活動の題材としてフォーカスされることは別だ。その観点からすれば、気仙沼は海を教育活動の主題として必ずしも十分には取り扱ってこなかったのである。面瀬小学校教諭の亀谷さんは自らの子供時代をこう語る。
亀谷「私は地元出身であるにもかかわらず、(気仙沼のことを)全然知らない。今年はじめてみらい造船(※気仙沼市朝日町にある造船事業を中心とする企業「株式会社みらい造船」)にも伺って『造船の街なんだ、気仙沼って』と気づいた。私自身が今の子供と一緒に学んでいる」
海洋教育という概念が、気仙沼があらためて海に目を向け教育の主題とするきっかけになったのである。

海洋教育のはじまりと拡がり
あらためて海洋教育とは、海と人とのつながりについて学ぶ教育である。海は多くの生命や環境を支え、私たちの暮らしとも深く結びついている。その海とともにどう生きていくのかを考え実践していくことが、海洋教育の目指すところだ。2007年制定の海洋基本法が掲げた 「海洋と人類の共生」の理念のもと、全国で多様な取り組みが進められることとなった。(※参照 海洋教育とは? by 3710Lab)
ただし、学校で「どのような授業をするべきか」について具体的な指針は示されておらず、実際の授業は行政や各学校の工夫や判断に委ねられた。それゆえ当初、海洋教育に取り組む地域は増えなかったが、特に東日本大震災後、海と人との関わりを見つめ直し、これからを構想する学びとして海洋教育を組み立てようとする動きが各地で生まれた。気仙沼の取り組みも、そのひとつである。
また、気仙沼では海洋教育が学校や地域に閉じないための仕組みづくりも進んでいった。2016年度よりはじまった「海洋教育こどもサミット(以下、こどもサミット)」がその代表的な取り組みである。
気仙沼市教育委員会、そして第1回の会場校である面瀬小学校の校長としてこどもサミットの実現に尽力した淺野さんは、当時をこう振り返る。
淺野「海洋教育で学んできたことを発表し、互いに意見交流をできる相手が必要でした。その際気仙沼の学校以外と交流することで、市内の学校同士とは違うギアの入った時間にできる。また、学校生活の中で子供たちに根付いてきた学びの成果が発表の中で自然と表現されることになるので、子供、先生方それぞれにとって有意義な場にできると考えました」
第1回のこどもサミットでは、岩手県洋野町の子供たちと教員が気仙沼を訪れ、 学びの成果を発表しあい、交流を深めた。その後、気仙沼市と洋野町が交互に会場となり、対面での開催を重ねてきた。2020年度からはコロナ禍を受けてオンライン開催へと移行して、2025年度まで継続している。

壁にぶつかる教員たち
一方、海洋教育が少しずつ拡がっていく過程で、さまざまな難問に直面していった。
小野寺(裕)「そもそも『海洋教育って何だ』っていうところですよね。何をすることが海洋教育だ、っていうのが私自身も、市全体でもあいまいで、議論がやや薄かったんじゃないかなと思う」
海洋教育に取り組む意義は理解できる。だが、授業としては何をすればいいのか、はたしてどの教科で、どういった内容を扱えばいいのか。ただでさえ授業時間は厳しく、扱う内容も多いのに、さらに新たな内容を付け加えるということなのか……
初期の海洋教育のアプローチは、全国的にも気仙沼においても「理科」が中心となった。海の生物、仕組み、環境など、海に関わる内容が多かったからである。他にも、水や大気といった内容を海へと結びつけて授業にするものも多かった。
しかし、気仙沼において、それらの視点は 「海と生きる」ということの一面でしかない。海によって地域を支える産業構造、海との関わりの中で生まれた祭り、風習、食文化などもある。海への自然科学的な理解を高めていくことは大事であるものの、それだけでいいのだろうかという問いも生まれる。

また、たとえ「海洋教育は海の科学的な学習」という目線が定まったとして、次に具体的な学習の題材を選ぶ必要がある。だが、ある題材についての学習にすべての子供が前向きになることは難しい。
畠山「海洋プラスチックは難しかった。聞いているし理解しようともしていたけれど、自分の得意な分野ではなくて頭に入ってこなかった。「海洋プラスチックとは?」と聞かれても、興味ある人みたいには答えられなかった」
中村「どうしても全員が全員楽しいって思えるものじゃない。自分が興味を持てるものが見つけられなかったり、無理やりなテーマでやる人もいた。「自分の好きなことをやろう」って言われても、別に興味ないし、みたいな人たちも少なくなかった」
「海と生きる」ことを目指すためにスタートした気仙沼の海洋教育は「何をどう教えればよいのか」という問いにぶつかった。
それでも気仙沼の教員たちは、日々の授業を通して、望ましい海洋教育のあり方を模索し、議論を重ね続けた。教育委員会も、教員が研究を行えるようにする「気仙沼市教育研究員制度」や、市内外の研究機関等が集まる委員会を組織し、根本の問いへのチャレンジを支え続けた。
櫻井「先生の熱量はものすごかった。『子供たちに何を材料にこれを教えようか』って本当に全力で、『これが教員だな』って見ていましたよ。やっぱり授業づくりって本当に楽しいんだなって」
子供たちに何を伝え、何を学ばせるのか。未来を生きる子供たちのために必要なことは何か。授業はどうあるべきなのか。一番の具体的な次元である授業づくりを重ねることを通して、「海と生きる」ための海洋教育の像に迫る道筋が少しずつできていった。
<後編はこちら>
Realization : 3710Lab