海と生きる(後編)

気仙沼の未来

東日本大震災後、未来の持続可能性を見据え海洋教育に取り組んできた町・気仙沼。「海と生きる」という復興スローガンと歩みをともにする教育として期待を集めたが、やがて「何を、どう行うべきなのか」との問いに直面することになる。その問いにどのように向き合い、いかにして次の展開へとつなげていったのか。

海洋教育を受けた子供たち、そして実践を積み重ねてきた気仙沼市の教職員への取材を通して、気仙沼の海洋教育13年の歩みを振り返る。 

前編はこちら

インタビューに登場する方(前後編共通)

(先生方)
淺野亮さん(気仙沼市・宮城教育大学連携センター 主任運営員(運営統括))
小野寺裕史さん(鹿折小学校 校長)
亀谷彩布美さん(面瀬小学校 教諭)
櫻井美佐子さん(階上中学校 校長)
佐藤祐美子さん(面瀬小学校 校長)
千田康太さん(鹿折小学校 教諭)

(高校生のみなさん)
小野寺椎菜さん(気仙沼高等学校 3年)
倉永那月さん(気仙沼向洋高等学校 3年)
栖原朱里さん(気仙沼向洋高等学校 3年)
中村祥平さん(気仙沼高等学校 3年)
畠山愛生優さん(気仙沼高等学校 3年)
松岡寧佳さん(気仙沼高等学校 3年)
村上一善さん(気仙沼向洋高等学校 3年)

※氏名はあいうえお順、所属は小学校はすべて気仙沼市立、高校はすべて宮城県立、所属・役職は2026年2月現在


「海と生きる」に立ち返る 

「海洋教育とは何か」という問いに、教員は授業を通して向き合い続けた。それを支えたものはなんだったのだろうか。

ひとつは、そこに海があるというシンプルな事実である。魚介類をはじめとする食の恵み、海上での交易などからもたらされる経済的恩恵だけでなく、気仙沼という場所そのものをつくり支えている「海と関わっている」という事実がもたらす恵み。すべては海あってのものたちだ。

気仙沼向洋高校の倉永さんと栖原さんは語る。

倉永「海という存在が常に身近に感じられること。いつでも遊びに行ける環境は残ってほしいなって思っています」

栖原「私自身、ずっと小さい頃から海があって、海で作った思い出もたくさんあります。かたちは違っても、これから海に来る人も、今まで来ていた人も、多分そういう思い出とかはあると思うので、これからもずっと続いてほしいなって思います」

県内の他の地域で生まれ育ち教員として気仙沼にやって来た櫻井さんにとっても、気仙沼の海、そして海と関わる人の姿は特別なものとして映っている。

櫻井「本当に海に対する憧れがありましたもん。『すごい!行けるんだ』と喜んで、赴任したのが気仙沼の大島です。日常生活の中には欠かせない海の存在を、子供たちは本当によく体験している。自然に海と共存しているな、と思いました」

気仙沼の人は、老いも若きもごく自然なかたちで海と深い関わりを持ってきた。海洋教育を気仙沼にとってかけがえのないものとして深め実践していくうえで、あらためてその事実と、「これから海とどう関わっていくか」という未来に向けた問いに、真正面からぶつかることとなる。それは、「海と生きる」という気仙沼のアイデンティティと向き合うことだった。

亀谷「5年生の総合の授業で『<海と生きる>って震災でできた言葉なんだよね』ってテーマで子供たちが話し合ったり、6年生の発表ではこの言葉に向けた子供たちのコメントがめちゃくちゃ書いてあったりしました。『海と生きる』、この言葉の持つパワーを前に、このひとつの言葉についてみんなで『こうじゃない、ああじゃない』って話し合うのも楽しいんじゃないかと気づいた」

大人たちにとって、「海と生きる」は震災を経てもなお揺るがない自分たちの立ち返る場所を指し示すための言葉だった。そしてそこに、子供たちがはじまりの場所を示す言葉としての意味を重ねる。それは教育という、過去・現在・未来という時間軸を包み込む営みが生んだ重なりである。

松岡「『海と生きるって言っても、私たち海に生かされてるんじゃない?』みたいな対話をした。それがすごく楽しかった」


過去の経験をひもときながら、今の姿を題材に、これからの「海と生きる」を問うていく。気仙沼にとっての海洋教育が必要としていたものが、足元の教員と子供たちとの関わりの中から見えてきた。

海と人と想い

海洋教育の方向性が見えてくる中で、教育実践の捉えなおしも起きる。面瀬小学校校長の佐藤さんは、海洋教育スタート当初の赴任校時代を回想する。

佐藤「私は『海を学ぶ』ではなく、『海で学ぶ』をずっとやっているつもりでした。海で生きている人たちの思いとか考えが、自分や子供たちのこれからの生活に生きていくといいなあ、なんて思いながら、その人たちの思いややっていることのよさを探究していく」

面瀬小学校・佐藤校長、亀谷教諭(左から)

「海について」学ぶのではなく、「海を通して」学ぶ海洋教育の姿である。

佐藤「『このカキがうまく育ちますように』って漁師の人たちは思って仕事をして、3年後に大きくなったカキを見て、『よかった』となる。そこに触れさせるように授業を仕立てていくっていうのを気をつけていました。震災でダメージを受けたけれども、そこからどんな想いで復興していったのか。『でも俺たちは海に対しては怒っていないよ』というところこそ、気仙沼って感じがする」

千田さんも、自身の海洋教育への向き合いの変化を振り返る。

千田「海洋教育での私の指導の立場も、子供たちとどう作っていくか、一緒にすり合わせていった印象でした。『海のことを学ぶだけじゃないんだ』『みんなが将来全員漁師になるわけじゃない』っていうのを何回も言いました」

8年前のことを思い返しながら、印象深いエピソードを教えてくれた。

「小野寺椎菜さんが発表会のときに、漁師のなり手不足のことを発信したんですよ。聞いている人から『あなたは漁師になりたいの?』って質問を受けて、すぐには答えることができず自分の思いをどう伝えたら良いか悩んでいました。その後、彼女は1年かけて、漁師のなり手不足といった課題や漁業の魅力と向き合っていった。その当時の彼女の夢は小説家だったので、『じゃあ、気仙沼を舞台に、海にかかわる様々な仕事に携わり、大きな夢を描いている気仙沼の人々を主人公にした小説を書こう』ってなったんです。

そのときに、『あ、これが海洋教育の目指すところ、その子の生き方につなげることなのかな』って思ったんです。海のことを学ぶだけじゃなくて、そういう対話の仕方とか、自分との深め方というか、そういう場面も含めて子どもと一緒にやっていくのが海洋教育なんだって」

2019年実施の「海洋教育研究会」で、自校の海洋教育カリキュラムを紹介する千田教諭

海について教えることが目的となると、それを受ける子供たちの存在が薄れてしまう。だが、子供たちの未来が基点になるとき、海洋教育として行うべきことが見えてくる。
子供たちの側も単に海について学ぶ場としてではなく、海洋教育をどのように自らにとって実りあるものとして生かすかを考えていた。

松岡「海洋って小学生が自分から取り組むようなテーマじゃなかった。最初は漠然としていたんですけど、その後に自分で「環境」というテーマを置いて突き詰めていったのは大事なプロセスだった」

小野寺(椎)「きっかけ作りとして、やっぱり身近なところから気仙沼の探究を進めていくのは大事かなと思います」

そして大人と子供がそれぞれの仕方で未来に向かう学びを、気仙沼という地域のあり方がおおらかに受容し後押しする。

佐藤「気仙沼は町全体が学びのフィールド。子供が大人の仕事場に学びにいくと、大人はちゃんと時間を取ってくれる。町歩きで氷屋さんに行ったところもあるし、漁協さんに行ってお土産でタオルもらってきたチームもあって。みんなで子供を育てよう、という土壌がある」

亀谷「後でお礼の電話をしたら、『すごい深い質問をしてくれてこっちもなんか真剣に考えさせられました』って言われました。おもしろかったですね」

子供の側も「気仙沼」という町の懐の深さを確かに感じている。

畠山「地域の人に『これやりたい』って言うと、全部『いいよ』と言ってくれる。ダメって言う人はほとんどいない。他の地域のことはわからないけれど、これはリスクがあるから子供にはさせられない、と言う人も少なくはないと思う。でも、気仙沼にはそれがあまりないと身をもって体感しています」

海と人と想いを抱き、気仙沼の海洋教育は10年かけてその根幹を育て上げてきた。

教育を越えて、気仙沼として

今回お話しを聞いた3人の校長先生は、2026年3月で役職定年を迎える。これからの海洋教育、気仙沼への想いを語ってくれた。

櫻井「地元にいるうちは地域のことを知って大事にしてほしいし、どこかに行ってもふるさとを思う心はずっと持ってもらいたいなと思います。そろそろ子供たちも震災を知らない世代になりますけど、みんなで力を合わせて震災をなんとか乗り越えてきた気仙沼なので、本当にそのことを誇りに思ってほしい」

佐藤「『海の変化に合わせ養殖する種類を変えたり技術の導入に取り組もうとしている』という話を聞くと、『漁師さんも環境に適応しながら生きていこうとしている』点に気付くきっかけになる。それって学びですよね。ただ海の環境を守りましょうというだけでなく、その場の状況に応じて選択し行動していかなければならない場面があるということを、ここから学ぶこともできる。思いや生き方に向き合えば、すべてが学びの題材になっていく」

小野寺(裕)「海で育つ町として、子供が『ここにいるのが誇りだな』『いてよかったな』『楽しいな』って実感できるといいと思う。ただ過ぎていく、時間を過ごす町じゃなくて、ここにいてよかったって思って社会に出てもらいたい。
気仙沼の人は、気仙沼の生まれであることに誇りを持って生きている人が多い。実はそれってすごいこと。自分はそれをずっと残していきたい。単に『住んでいた町』じゃなくて、『わたしの町』という気持ちが育っていくようになってほしい」

「私が残したい気仙沼」として小学生が書いた絵

気仙沼の海洋教育の過去、現在を振り返り未来を考える中で、教育活動が持つ一種の「力」の意義が見えてくる。それは、一面で強制的で恣意的であり、しかし何か大切だと思うものを残し引き継ぐための力だ。

畠山「海洋教育は、学校から言われなかったら多分自分たちが手を触れないようなこと。気仙沼は海があるからこそ、『海はきれいだ』とかの認識で済ませない方がいいなってすごい思いました。海洋教育が、気仙沼を好きになるきっかけになった」

小野寺(椎)「人生に関わる成長につながった」

日常的に海が近い存在の地域であっても、そうであるからこそ、海と人のつながりのことに思いを馳せることは難しいのかもしれない。そうしたものを「らしさ」にしている地域が、未来をつくるために「わざわざ」海洋教育に取り組む。


東日本大震災とその後に続く日々は衝撃的な記憶として残っている。しかし、いま気仙沼で新たな一歩を踏み出そうとする世代は、その「当たり前」としての記憶をほとんど持っていない。

村上「幼稚園で寝ていました。そうしたら押し入れに入れられた、っていうぐらいの記憶です」

栖原「保育園に行ってたんですけど、おじいちゃんが迎えに来た車の中のことをざっと覚えていたぐらい」

今、現在進行形で小・中学校で海洋教育に臨んでいる子供たちは、そのほとんどが震災後に生まれた世代である。

だからこそ、今また「海と生きる」ことの意味を問う機会なのかもしれない。

畠山「地域はその時から結構変わってるじゃないですか。防潮堤が立って海は見えないし、新しい建物も建ってきて。でも変わんないのはやっぱ人だなって思う。みんな優しいし、あいさつしたら絶対返してくれるし、困ったことがあったら絶対助けてくれる大人が周りにいっぱいいる」

風景が変わっても、人は変わらない。それは具体的な誰々というよりも、海とつながり続ける人と、その記憶である。

松岡「気仙沼にいたんだ、こういうことを経験したんだっていう記憶は残していきたい。もちろんきれいごとばっかりじゃなくて辛いこともあったけど、自分たちが被災した町であるからこそ持っている記憶の価値があると思う。『震災があった時はこうだったよね』っていう記憶があって、それを今は誰かと共有できる。その時、実は今の気仙沼だけを見てるんじゃなくて、過去からも気仙沼を見ていることになる。だからそういう、記憶を持っている人たち、そしてその人たちのつながりをちゃんと残していきたい」

栖原「気仙沼はあんまり広くないので、ほとんどが友達と行った場所。全部思い出だらけだから、全部好きです」


高校生のかつての担任だった千田さんは、悩み問いながら進めてきた海洋教育を振り返り、「答え合わせってどこでできるかなって思ったとき、高校生の成長の姿だったりするのかな」と語った。

新たな未来に向けて踏みだそうとしている彼ら彼女たちの言葉が、その答えだ。

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