「映画の海で歩く」 は、 海をつなぐミュージアム (MOON) の企画のひとつです。 海と人とのつながりや暮らしを深く知り、 その関係のなかから新しい価値や気づきを見つけていくことを目的とするミュージアムにおいて、 「映画」 を手がかりに海と向き合う試みです。

"Visiting the Sea in Films, on Foot" is an essay series by the Museum of Ocean Nexus (MOON), a museum dedicated to exploring the connections between the sea and people. Its mission is to deepen our understanding of the relationship between the sea and human life, and to discover new perspectives and values that emerge from that relationship. This program approaches the sea through the lens of cinema, using film as a way to engage with and reflect on the ocean.

02

見られなければ存在しない

『blue』 (2003)
新潟県新潟市西区四ツ郷屋

「映画の海で歩く」 は、 旅と映画の連載エッセイです。 映像作家・福原悠介が企画展のテーマに呼応した作品を選定し、 その撮影地を訪れ、 イメージとリアル、 過去と現在が重なる場所から、 海についての思考と体験を言葉にします。

映画の海と意味

「映画の海で歩く」 の企画が立ち上がったとき、 海が印象的な映画、 ということで最初に思い浮かんだのが、 安藤尋監督の 『blue』 (2003) という作品だった。

映画 『blue』 は、 魚喃 (なななん) キリコの同名漫画が原作となっている。 最初に見たのはもう二十年以上も前だったが、 学校を抜け出した高校生ふたりが砂浜に並んで座って、 海を見ながら語り合うシーンがはっきりと記憶に残っていた。 そういう場面自体は、 漫画にせよ映画にせよ、 ごくありふれたものだろう。 しかし 『blue』 には、 ほかの作品とどこか違ったような感触があった。 それはなんというか、 人間が海という場所で 「ただそこにいる」 感じ、 みたいなものだ。

ひさしぶりに映画を見直した。 「ただそこにいる」 感じは、 変わらずそこにあった。 しかし 「ただそこにいる」 とは、 そもそもどういうことなのだろう。 そのとき海は、 一体どんな場所なのだろう。 あるいは海は、 わたしたちの前に、 どのような 「意味」 としてあらわれているのだろう……映画の海を歩きながら、 そんなことを考えてみたいと思った。

新潟訪問

新潟を訪れた当日はどんよりとした曇天で、 映画のなかに映っていた海のシーンと、 すこし似ているような天候だった。 新潟駅近く、 飲食店やビジネスホテルの立ち並ぶ一角のパーキングで、 レンタカーを借りた。 とりあえず西へ、 海のほうへと車を走らせる。

新潟は 『blue』 のおもなロケ地であり、 原作者・魚喃キリコの出身地でもある。 今回の目的地はひとまず 「四ツ郷屋浜」 というところに設定した。 映画に出てくる海のシーンは、 どうやらそのあたりで撮影されたらしかった。

海が近づいてくると、 人家もなくなって、 かなりさびしげな風景になった。 海岸線と並行している道路を走りながら、 見覚えのある光景があらわれないかと、 周囲に注意を向ける。 道路の脇には雑木林が鬱蒼と茂っており、 とくに変わることのない光景がしばらく続いていた。

目印になったのは、 一本のカーブミラーだった。 そこから海岸に向けて道が続いている。 一度は通りすぎてしまったが、 Uターンして戻ってみると、 やはり映画に何度も登場する場所だった。 右側に木の柵があり、 草の轍の緑が印象的な、 海へとまっすぐ続く道。

映画の序盤、 主人公である高校生・桐島カヤ子は、 通学中のバスを途中下車して海のほうへ歩いていく同級生・遠藤雅美の姿を見かける。 遠藤は、 同級生ではあるがひとつ年上で、 なんらかの事情で停学になった過去を持つ。 ふたりはだんだん親しくなって、 遠藤は桐島を海へと連れていく。 そのときに彼女たちが通るのが、 この場所だった。 道の先には、 くすんだ灰色のような青の海が広がっていた。 ふたりは砂浜に並んで座って、 遠藤は桐島に話しかける。

「ときどき帰りにここに来て、 時間潰したりしてたんだよ。 学校終わって、 家に帰りたくないときとか、 どこにも行くところがないから」

映画の海へと続く道

車から降りて、 映画に出てきた海への道に向かう。 ずいぶん草が生い茂っているようだが、 劇中でも印象深かったカーブミラーがあるから、 やはりここで間違いない。 あらためて確信を得ながら先に進むと、 なにやら道をふさぐものがある。 小さな踏切のような遮断機。 竿の部分には一枚のシートが取り付けられており、 そこには、 向こう側が透けて見えるくらいに薄くなった文字で 「立入禁止」 と書かれていた。

まじか、 と思った。 新潟まで来て、 実際のロケ場所を見つけてから 「入れない」 というパターンは想像していなかった。 しかも、 まだ道。 バリケードには、 何度見てもはっきり 「立入禁止」 と書かれており、 これではそもそも海に行けない。 映画の海で歩けない。

しかたがないので、 ひとまずこの場所をiPhoneで撮影する。 そして考えてみる。 映画とは、 そもそもフィクションである。

『blue』 も、 おもなロケーションは新潟だが、 学校のシーンは富山で撮影されたらしい。 それを編集で同じ土地に見せているわけだ。 この道路も、 劇中ではバス停が置かれてあるところだが、 現在そのようなものは見当たらない。 きっと美術で作って置いたのだろう。 フィクションというのは、 そういうものだ。

だからこの道の先にあるのも、 もしかしたら映画の海ではないかもしれない。 実際には、 別の場所で撮影をしたものを、 編集で繋いでいただけかもしれない。 道の先まで行ってみれば、 事実がきっとわかるだろう。 しかし 「立入禁止」 である以上、 それを確認することはできない。 だからこそ、 『blue』 を見たわたしたちにとって、 この道は、 映画の海に続くものであり続ける……などという屁理屈を思いつく。

『blue』 な感覚

いくつか近くの海岸を回ってみたが、 どれも映画の海ではないようだった。 行く当てもなくなってしまったので、 最後に、 例の 「道」 からすこし離れたところにある、 当初おおまかな目的地として設定していた、 四ツ郷屋浜に行ってみた。

すでに廃業している旅館の建物が残っていた。 その脇の、 今はもう使われていない休憩所か何かの前に車を停めた。 昔はもしかしたら、 それなりに栄えた海水浴場だったのかもしれない。 そんなに広くはない砂浜で、 数人の子どもたちが遊んでいた。

そこもやはり、 映画の海とは違う場所のようだった。 岸壁のうえに腰掛けながらぼんやりと海をながめて、 波の音を聴きながら過ごした。 風は強かったが、 心地よかった。 なにもすることがなかったので、 自分が 「ただそこにいる」 感じがした。 ロケ地ではなくても、 ちょっと 『blue』 な感覚があった。

なんだかんだで、 一時間くらいはそうしていただろうか。 太陽はもう沈もうとしていて、 さっきまで遊んでいた子どもたちもいつの間にかいなくなっていた。 すこし寒くなってきた。 そろそろ帰ろうと思った。

砂浜という密室

車に乗り込み、 エンジンをかけた。 ハンドルを切って、 アクセルを踏む。 一瞬だけ動いたところで、 車が停まった。 何かに引っかかったのか。 もう一度アクセルを踏む。 タイヤが回る音がするが、 車は動かない。 一旦、 運転席から降りてみる。 どうやら車輪が砂に埋まって、 空回りしているようだ。 これが 「スタック」 というやつか。 話には聞いたことがあったが、 初めての経験だった。

解決方法はないだろうか。 色々と検索してみる。 水をかけて砂を固める方法があるというので、 ペットボトルの残りを使ってみたが、 そんな量ではなんの効果もなかった。 あれやこれやと格闘してみたが、 どうやら無理らしいと悟った。 レンタカー会社に電話をして事情を話すと、 レッカー業者を手配してくれるというので、 折り返しを待つ。

もうほとんど夜である。 まわりには、 街灯ひとつない。 だんだんと心細くなる。 電話が鳴る。 電波が悪いので、 通話も途切れ途切れだ。 業者の方が言うには、 「到着まで一時間はかかります」 とのこと。 まさかこんなところで一時間も待つのか。 歩ける範囲にはコンビニや自販機はおろか、 民家すらないような場所だ。

さっきまであんなに心地よくたたずんでいた海も、 なんだかおそろしいもののようにこちらに迫ってきた。 あたりに遮るものは何もないのに、 急に密室に閉じ込められているような気持ちになった。 いつでもそこを離れられたときには、 わたしは 「ただそこにいる」 ことができた。 しかし、 車が動かなくなって海に足止めされたとたん、 わたしは 「ただそこにいる」 ことができなくなった。 「ただそこにいる」 ができたのは、 「そこにいない」 もできたから、 だったのだ。

とにもかくにも、 待つしかなかった。 突然、 雨が降ってきた。 ふんだり蹴ったりだ。 車のなかへ避難して、 強く打ち付ける雨音を聞きながら、 ひたすらにレッカー車が来るのを待った。 気分を紛らわせるために、 『blue』 のサウンドトラックを流してみた。

ただ鳴っている音楽、 インタラクティヴなメディア

『blue』 の海、 砂浜のシーンには、 リコーダーがメロディラインを奏でる、 素朴なだけでなく、 まるで 「練習」 にすぎないかのような、 あまり音楽っぽくないサウンドトラックが流れる。 その音は、 映画のなかでの海のシーン、 あるいはそこにいるふたりの存在のもろさを、 適切に表現している。

音楽を担当したのは、 後に 『あまちゃん』 などでも広く知られるようになる大友良英。 彼は、 インタビューのなかでこんなことを語っている。

「映画やドラマって、 大ざっぱに分けると物語が前にぐっと進むシーンと、 物語が進まない……進むのではなく 「そこにただ存在する」 というか、 何も展開しないようなシーンがあるんですよね。 (……) 海は何も語らないけど存在してるのと同じように、 音楽もただ鳴っているだけの感じが必要だなって思って。 ストーリーの展開とは関係なく 「何があろうと海はあるもの」 というような感じを意識しましたね」※1

ここで語られている 「ただ鳴っているだけの感じ」 は、 映画の音楽をあらわすのにとても的確な表現だ。 「そこにただ存在する」 「何があろうと海はあるもの」 という言い方も、 静謐な画面と音響でつくられた 『blue』 の映画そのもののように思える。

また、 大友の映画音楽について、 映画批評家・樋口泰人は、 大友がジャン・リュック=ゴダールの映画から影響を受けていることを指摘したうえで、 こう書いている。

「要するに、 映画は人に見られることでようやく成立する儚くて淡いものなのだ。 (……) 大友良英がゴダールから学んだのは、 そのような映画のあり方ではないだろうか。 つまり、 誰かに聞かれることによってかろうじて成立する音楽。 だからその音は目に見えるのである」※2

音楽ライヴ用の機材を使用して大音響のなかで映画を鑑賞する 「爆音映画祭」 の主宰としても知られる樋口は、 映画を 「徹底したインタラクティヴなメディア」 と定義している。 それは一方通行の視聴覚情報ではなく、 スクリーンと観客のあいだに生まれる 「関係性」 だ。

大友による 「ただ鳴っているだけの感じ」 の音楽は、 登場人物の心象やストーリーを直接に説明することはないが、 それゆえ観客の視線を必要とする。 「物語が進まない」 シーンにおいてその音楽は、 映っている人々がスクリーンのうえで 「ただそこにいる」 ことを可能にする。 それは、 彼のつくりだす音が 「誰かに聞かれることによってかろうじて成立する音楽」 だからであり、 観客はそこで耳をそばだて、 ストーリーを追うのとは別の仕方で、 眼とスクリーンの 「関係性」 を結び直すのだ。

見られなければ存在しない

海には、 わたしたちに 「ただそこにいる」 ことを許容するような、 時間の流れがある。 「ただそこにいる」 とは、 そこを離れるという選択をひとまず先送りしながら、 波の音や運動、 風や砂の感触に身体を開いて、 その場所にとどまり続けることである。

そこには、 「何があろうと」 存在し続ける海と、 そうではないわたしたちとの非対称な関係がある。 海はわたしたちに応答しない。 こちらの意思によって波の動きが変わるわけでもない。 だからわたしたちは、 海に対して何かを成し遂げようとするのではなく、 その前に身を置くほかなくなる。

そしてそのようなとき、 わたしたちの知覚は受動的であることによって、 かえって普段よりも鋭敏になる。 それは、 映画館のシートに身を沈め、 スクリーンから届く光と音を受け取るときの状態に、 どこか似たような体験だ。

ぼんやりと海を見つめながら、 わたしたちは現実の操作を手放して、 目の前で起こることへ身を委ねる。 そのうちに海は、 たんなる風景や自然現象であるよりもむしろ、 意味と無意味の境界を曖昧にしていくような 「関係性」 になってゆく。 「何があろうと」 ある海は、 「ただそこにいる」 わたしたちとのあいだに 「儚くて淡いもの」 として再びあらわれる。

そのとき海は、 見られなければ存在しない。

夜の浜辺で

喉の渇きと不安を抱えたままで、 結局一時間半くらい経ってからレッカー車が到着した。 すでに暗黒と化した砂浜に差し込むヘッドライトを見たときの安堵は、 普段の日常生活ではあまり感じることのない類のものだった。

レッカー車を出してくれたのは気の良い青年で、 「やっちゃいましたねえ」 という軽い言葉の響きに救われた。 車の前方の箱みたいなところを開けて、 ロープをつないで引っ張る。 さまざまな調整が続いて、 なんだかんだで三十分近くかかっただろうか。 砂浜をズルズルと横滑りしながら、 車はなんとか道路と呼べる地面まで戻った。

わたしは書類にサインをした。 彼は 「あとかたづけをするから、お先にどうぞ」 と言ってくれた。 レッカー車を残して、 思いがけず長い時間を過ごす羽目になった砂浜を去った。 なぜだかすこし、 郷愁のようなものを感じた。

帰りにまた、 映画に出てきた道の脇を通った。 あたりは夜で何も見えなかったが、 車のライトが見覚えのあるカーブミラーを照らし出した。 いつかあの道の先に行くことができたら、 そこにはどんな海が広がっているだろうか。

  • 音楽ナタリー 「大友良英 狂騒のあとで」 2013年12月26日

    https://natalie.mu/music/pp/otomoyoshihide/page/3
  • 樋口泰人 「映画には音楽など必要ない」
    『ユリイカ 2007年7月臨時増刊号 総特集=大友良英』 青土社 p.183

『blue』

『blue』

  • 監督: 安藤尋
  • 製作委員会: blue PRODUCTION PARTNERSHIP
  • 原作: 『blue』 魚喃キリコ (2020年新装版、発売:講談社、発行:東京ニュース通信社)
  • 音楽: 大友良英
  •  
  • 書影は原作『blue』

文・映像 | 福原 悠介(ふくはら・ゆうすけ)

 

1983年宮城県仙台市生まれ。 映像作家。 地域の文化とそこに暮らす人々の日常を記録する。 おもな監督作に 『家にあるひと』 『ロッツ・オブ・バーズ』 。 また、 小森はるか監督 『空に聞く』 をはじめ、 『うたうひと』 『二重のまち/交代地のうたを編む』 などに参加。 小説 「何もない部屋」 で第6回ことばと新人賞佳作。 令和7年度宮城県芸術選奨新人賞 (メディア芸術部門) 。

HP: https://www.petrajp.com
X: https://x.com/PETRA_022
Instagram: https://www.instagram.com/fuku_petra
note: https://note.com/petra_yf

Sound

/

Size

/