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海を見る、 海が見る
映画 『寝ても覚めても』
宮城県名取市閖上
「映画の海で歩く」 は、 旅と映画の連載エッセイです。 映像作家・福原悠介が企画展のテーマに呼応した作品を選定し、 その撮影地を訪れ、 イメージとリアル、 過去と現在が重なる場所から、 海についての思考と体験を言葉にします。
海から映画を考える
映画には、 印象的な海の場面がたくさんある。
トリュフォーの 『大人はわかってくれない』 や、 フェリーニ 『道』 のラストシーンなんかがすぐ頭に思い浮かぶけれど、 海が映画においてどんな意味を持っているのか、 「映画から海を考える」 を考えることは、 あまりにも広大で手がかりがないようだ。
しかし逆に 「海から映画を考える」 のであれば、 なにかひとつくらいは発見があるかもしれない。 そのきっかけとして、 映画に映っていた海をこの目で見て、 土地を歩いてみるというのはどうだろう。 そんなことを思ったのが、 この文章を書くきっかけになった。
宮城県名取市閖上 (ゆりあげ)
仙台駅の東口でレンタカーを借りた。 沿岸部に向かって三十分ほど車を走らせると、 大きな川が見えてきた。 これは、 名取川である。 川沿いに海のほうへまっすぐ向かうと、 そこが今回の目的地である閖上だ。
閖上は2011年の東日本大震災による津波で、 大きな被害を受けた。 たくさんの家が流され、 ほとんどの地域は、人が住むことのできない災害危険区域に指定されてしまった。
閖上の港では、 震災前から朝市が名物だったそうだ。 現在も日曜日には市が立って、 たくさんの人で賑わいをみせている。 訪れたのも偶然ながら日曜で、 貝や魚を網で焼いてその場で食べている人々がいた。
この土地が、 劇中に登場する映画がある。 『寝ても覚めても』 という、 濱口竜介監督による2018年の作品だ。
唐田えりか演じる朝子が、 同じ顔をしたふたりの男性、 麦 (ばく) と亮平に恋をする。 劇中には東日本大震災の描写があり、 東京に暮らしていた朝子と亮平は、 ボランティアとして被災地へ通う。 その場所がまさに、 閖上なのだ。
閖上に到着し、 すこし早めのランチ。 川沿いに震災後できた飲食店街・かわまちテラス閖上で、 地元の名物であるしらす丼を食べる。
オススメが 「二種盛り」 ということで、 どういう意味かと思ったら、 茹でたしらすと生のものが、 ご飯の上に両方乗っている丼だった。 生と茹でとでそれぞれ違う食感をたのしみつつ、 頂上にある卵黄を崩すとまた味に深みが増す。 大変美味であった。
「閖上の記憶」
昼食後、 車で移動しながら周辺を散策していると、 朝市の片隅に 「閖上の記憶」 という名前の場所を見つけた。 プレハブの簡易な建物だが、 震災の記憶を伝えるための施設ということだったので、 なかに入ってみることにした。 「資料館」 とか 「伝承館」 ではなく 「記憶」 と名付けられているところから、 すでにほかの震災関連の施設とは何かが違うような、 そんな印象があった。
職員の方に案内され、 まずは奥の部屋で震災直後の映像を見た。 津波に流される家々にあらためて衝撃を受けつつ、 画面に直接は映っていない、 目の前の光景を見て悲痛な叫びをあげる人々の声に、 胸を締め付けられるような思いがした。
映像を見終わってから、 スタッフの女性にお話をうかがった。 震災前と震災後の写真を見ながら、 津波によって閖上がどのように変わってしまったか、 この場所から何を伝えていこうとしているのか、 その思いを直接聞くことができた。
彼女はきっと、 ここを訪れた人に何度も同じ話をしてきたことだろう。 にもかかわらずその声は、 まるで今はじめて話されたことであるかのように、 まっすぐわたしに届いてきた。 その事実に、 わたしは心を動かされた。 震災で起こったことは、 いくら時間が経っても決して慣れることのない出来事であり、 語られる度につねにどこかがはじめてなのだろうと思った。
話を聞いているのがほかでもない自分であること、 声がわたしに直接向けられたものであることで、 何度も繰り返されてきた語りは、 一回きりの行為になるのだ。
『寝ても覚めても』 の防波堤
『寝ても覚めても』 には、 印象的な海のシーンがある。 亮平と幸せに暮らしていた朝子の元に、 行方知れずだったかつての恋人・麦が戻ってくる。 同じ顔の二人が対峙し、 朝子は今の恋人ではなく、 麦の手を取ってその場を去ってしまう。
朝子と麦は、 車で北に向かう。 眠ってしまった朝子が目を覚ますと、 そこは海沿いの防波堤の前。 「海が見たかった。 でも全然見えない」 と麦は言う。 彼の言葉には、 津波のあとに作られた巨大な堤防で、 「その後」 に風景が変わってしまった、 という事実が示されている。
朝子は 「これ以上は行けない」 と口にする。 麦は 「わかった」 と言って、 あっさり車で去っていく。 ひとり残された朝子は、 堤防をのぼる。 そのあとのカット。 まっすぐ海を見つめる彼女が、 正面からのカメラで映し出される。 潮騒の音。 そして彼女は防波堤の上を歩いて、 来た道を戻っていく。
映画のなかでもとくに重要な海のシーンなので、 今回の閖上訪問では、 朝子が海を見る防波堤をピンポイントでの目的地に設定していた。 「閖上の記憶」 のみなさんに映画をiPhoneで見せながら、 「これはどの辺でしょうか?」 と聞いてみた。 はっきりした目印もないような場面だったが、 さすが地元の方ということで、 だいたいの場所の検討をつけてくれた。
現地まで車では行けなかったので、 宿泊予定のホテルの駐車場にレンタカーを停めた。 スタート地点は、 ちょうど防波堤が途切れる終わりの場所だった。 防波堤の上に登って、 そこから三十分くらいひたすら歩いた。
しかし、 それらしい地点はなかなか見当たらなかった。 手がかりにしたのは、 災害復興住宅だった。 映画の画面の奥のほうに小さく、 震災後にできた建物が映っていて、 それは防波堤の上から今でも見えたのだ。
もうひとつの手がかりは、 防波堤のブロックの模様だった。 歩いてきたところまでのブロックは、 模様が映画と違った。 どこかで切り替わるはずだと信じて歩き続けて、 あるところから映画と同じ模様になった。 そろそろかもしれないと、 携帯のカメラ越しに災害復興住宅を遠く眺めながら、 画面のフレームを確認する。 角度と距離からして、 映画のロケーションはこのあたりのようだ。
だがそこは一面が松林になっており、 パッと見ただけでは映画と同じ場所だとはまったくわからない風景になっていた。 撮影からもう十年近くが経っているからだろう。
防波堤のうえに立ったままで、 わたしは海を見た。 よく晴れた日で、 波が白く輝いていたが、 映画に映っていたのはもっと薄暗い、 夜明けの海だった。
正面から撮ること
映画評論家・蓮實重彦は、 監督である 濱口竜介との対談※1 において、 「詰問しているわけじゃなくて」 と注意しつつ、 「あの防波堤の上から見える暗い海というのは映像としてぜったいに必要だったのですか」 と尋ねている。
濱口はそれに対して 「必要だと思いました。 それを見ずして次の展開には行けないような」 と答えている。 蓮實は 「どこかで海は出るだろうと思ったけれども、 真正面から撮るとは思っていなかったんです」 と返す。
濱口竜介の映画において 「正面から撮る」 ことの意味は大きい。 たとえば 『ドライブ・マイ・カー』 の車内であったり、 『偶然と想像』 のオムニバスである三話にもそれぞれすべて、 重要な場面に正面の切り返しがある。
防波堤の上に立った朝子は、 海を見つめる視線を正面から撮られることによって、 海 (とカメラ) に直接対峙する。
『寝ても覚めても』 において、 「海」 に託されているものとは一体何だろうか? 解釈の余地はさまざまにあるが、 あえてひとつ具体的な言葉を挙げるとすれば、 それは「震災」 なのではないかと、 わたしは考える。 濱口は前出のものとは 別のインタビュー※2 で 「なぜ震災を描いたのか」 と問われ、 以下のように答えている。
「結果的にではありますが 「他者の代表」 として、 ということです。 他者が他者であることは日常的には必ずしも意識されないけれど、 その他者性が浮き上がるとき、 他者として明確に現れます。 ……自分でも全く予想していなかった不意打ちを食らうことで、 その他者性が突然浮かび上がる。 その最もわかりやすいものが 「震災」 だと思います」
そしてまた濱口は 「自分が他者であり、 他者こそが自分である」 と続ける。
「その他者を消すことはできない。 そうすると、 自分が生きるということは、 「自分の中の他者と共に生きること」 の一択だと思います。 それが 「受け入れる」 ということなのか、 あるいは 「闘い」 なのかは分かりませんが、 ほかに選択肢はないと感じています」
『寝ても覚めても』 の海が 「震災」 として、 つまり 「他者」 (そして 「自分」 ) としてあらわれているとすれば、 あの防波堤の正面のカットは、 「彼女が海を見た」 だけでなく、 「海が彼女を見た」 場面だったのではないか。
海という 「他者」 から見つめ返される (カメラの) 視線が、 そこにはある。
他者と共に生きる
朝子には 「ずっと夢を見ているようだ」 というセリフがある。 『寝ても覚めても』 というタイトルどおり、 彼女にはどこか現実と夢の区別がないようだ。 海との正面の切り返しショットを経て彼女は、 「寝ても覚めても」 の状態を脱する。 そのことで映画は 「次の展開」 へと進められる。
『寝ても覚めても』 において、 「目を覚ます」 とは 「他者と共に生きる」 ことである。 朝子は海を見て、 海から見つめ返されることで、 震災つまり 「他者」 と対峙した。 そして他者とは自分でもある。 防波堤のうえで海を見た朝子は 「自分の中の他者と共に生きる」 ために、 亮平の元へと帰る。
果たしてそれは 「受け入れる」 ことか、 それとも 「闘い」 なのか。 朝子と亮平が横並びで川を見つめる映画のラストシーンには、 人が 「他者と共に生きる」 ことの両義性がむき出しにあらわされている。
海の見えるベランダ
その日は、 海沿いのホテルに泊まった。 新しくてとてもきれいな建物だったが、 それはすなわちここが明らかに震災後にできたところだ、 という意味でもある。 このあたり一帯にもかつては家があり、 人々の生活があり、 その真上にホテルが建てられているのかと思うと、 なんとも複雑な気持ちになる。
部屋からの景観はすばらしく、 海が一望できた。 ベランダに出て、 沈んでいく夕陽を見た。 薄暗くなっても、 釣りをする人や、 砂浜で花火をする若者たち、 ただ堤防に座って海を眺めている人など、 たくさんの人々がそこにいた。
震災が起きて、 海から離れた人がたくさんいる。 防波堤によって、 すぐそこにある海が見えなくなった。 波音がきこえなくなった。 住む人のいなくなった土地もたくさんある。 閖上もそうだ。
今回の企画展のテーマは 「未来」 に設定されている。 「未来」 というと、 なんだか希望ばかりのように聞こえるが、 そこには、 忘れられていくことと憶えていることの両方が含まれているようだ。
海はずっとそこにある。 寄せては返す波も、 その動きを延々と繰り返している。 しかしそれらの波は、 ひとつひとつが二度とは起こらない運動でもある。 波が寄せることも返すことも、 視点を変えてみれば同じものはひとつもなく、 すべてが一度きりの現象なのだ。
夜、 地元のスーパーで買ったほやの唐揚げを食べながら、 iPadで 『寝ても覚めても』 を再生した。 ついさっき自分が立っていた防波堤の上で、 朝子が海を見ていた。
なんどでも 「一度きり」 が繰り返される、 映画というものの不思議さを思った。
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「ユリイカ2018年9月号 特集=濱口竜介」 (青土社) p.34-35
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「『寝ても覚めても』 濱口竜介監督が導く、 日本映画の新時代」 (CINRA)
https://www.cinra.net/article/interview-201808-hamaguchiryusuke
『寝ても覚めても』
- 監督: 濱口竜介
- 脚本: 田中幸子、 濱口竜介
- 原作: 『寝ても覚めても』 柴崎友香 (河出書房新社刊)
- Blu-ray & DVD 発売中
- 発売元: VAP
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